#75 誕生日

昨日は63歳の誕生日であった。
何人かから〈おめでとうメール〉などを貰ったりした。
さすがに男友達からそういうのは無い。
あったら気持ちわるい。

で、暇なので、この、人間が〈生まれた日を祝う〉という行為は何なのだろうと考えてみた。

皆、普通に自然に当たり前に、お誕生日おめでとう、などと言う。
多種多様な民族がある事を思えば、生まれてきた事を呪う文化や風習が何処かに有ってもよさそうなものだが、たぶん無いだろう。

国を問わず、人種を問わず、宗教を問わず、また貧富も問わず、老若も男女も問わず、世界中の町々で今日も無数に誕生日が祝われている。

これはもう人間の本能としか思えない。
そして本能というのは真理を持っている。
従って、この世に生まれて来るというのは、本当に、祝福すべき事なのだろうと推察できる。

〈人間として生まれてくる事は奇跡に近い幸福だ〉と道元も言っていた。

しかし。
にしては、親が子供を殺したり、子が親を殺したり、誰かが誰かを苛めたり、騙したり、踏みつけたり、倒したり、そんな事が多すぎやしないか。

〈いちばん良いのは生まれてこない事だ。生まれてきたら、さっさと死ぬ事だ〉
by ニーチェ。

これはこれで言えている気もする。

人生は汚濁の海を行く航海であるか。
時に岩礁に乗り上げ、時に沈みつつも、大切な何かに出会うため、人は生まれて来るのかも知れない。
汚濁のなかにたとえ小さくとも光を見つけたなら、人生はもう、それでいいのかも知れない。

とキレイにまとめてしまった私であった。

ハッピーバースデイ。

#74 マヤカシ

薄日の射す暖かな午後。
(アイスクリームが食べたいな)、などと呑気な事を思いながら窓辺で町を眺めていたが、ふと遠くの、いつもは緑鮮やかにクッキリ見える馴染みの丘が、今日は濁ったように白く霞んで見えているのに気がついた。

黄砂だか、PM2.5だかのせいだろうか。

〈PM2.5注意報〉という言葉をテレビで初めて見た時、(午後2時半に何が起きるんだろう)と思ったものだが、そうではなく、これは喘息持ちやアレルギー持ちには厄介な有害物質らしい。 かくいう私も他人事ではない。

何年か前に呼吸困難でICU行きになった事があり、以来、呼吸器の具合が良くない。吸引ステロイド剤のおかげでなんとかやっているが、この頃はカネがないので毎日やるべき吸引を二日に一回に減らしたら、「呼吸器の病気は、突然悪化して、突然死ぬよ!」とかいってオコられた。 まあ確かに、呼吸困難時のあの恐怖は憶えているので、あーゆーのは嫌だな、と思う。
熱したフライパンに落ちた水滴が、シュン、と一瞬で蒸発するように死ぬのなら、べつにそれでいい気はするが。

しかし人間がそんなふうに自分で意図して死ねるなら、つまり自死がそれほどカンタンな事なら、世界の人口は今の半分も無いのではなかろうか。 いや雪崩現象で、それ以下になるかも知れない。
富裕な特権支配層は自死などしないだろうが、しかし特権支配層が支配する大衆の大半が死んでしまったら、特権支配層は特権も支配も失くした、ただのオジサンやオバサンに成り果てるのだから、これもじき死ぬだろう。 そうなってはコマる、という宇宙だか神だかの思惑で、我々は〈死〉に対して脅えるように造られている。
〈死〉と〈恐怖〉のセットというのは、じつはマヤカシなんだろうが、効果あるよなあ、確かに。

とかいらんこと言うてるうちに、何が書きたかったのか忘れてしまった。

#73 ドブの華 

知り合いがギターを貸してくれた。

自分のギターを持ってはいるが、十数年使ううちに色々不具合が出てきた所だったので、有り難かった。

真新しいそれを弾き下ろしてみると、じつにいい音がする。

ああ、ギターの音はこれだよな、と、古いギターに目を向ける。
ですね、と言うように、古いギターは壁に凭れている。
ボクは少し休んでます、と言うように。

それでこの数日、暇があれば、借りたそのギターを弾いている。

弾くと、そんな気も無いのに曲が出来る。

いまさら歌などつくっても儚いことだと思いつつ、やっぱり、つくってしまう。

Dを弾けば、Dのコードが持っているメロディーが分かる。
Eを弾けば、やはりそこに隠れていたメロディーが見えてくる。
メロディーを取りだすと、それに似合いの言葉がひとりでに生まれる。

そんな事をもう何十年もやってきた。

そうして出来た歌を、カセットに録り、コーヒーをいれ、煙草に火を点けて、ぼんやりと聴く。

うん、と一人満足する。

ささやかな、ささやかな、ささやかな、たしかな幸福が有る。

俺に出来るのは、こんなことくらいだ。

それを思う。

だったら、それをやればいい。

〈たとえドブの中に倒れても、私は前のめりに死にたい〉

坂本龍馬の言葉らしいが、そんな大層な話でもないが、少しだけ、似たような気分がある。

#72 散る桜

古い友人が亡くなったという知らせを貰った。
葬儀に来れるか、という尋ねに、行かない、と応えた。
行けない、ではなく、行かない、と伝えた。
たとえ身内の者が死んだとしても、私は葬儀などに出る気はない。
そんなものに出るより、何処かで一日その人のことを思っていたい。
異論はあるだろうが。

電話を切り、私は自転車で町外れに出て、春の川沿いの道を、とくにあてもなく走った。

亡くなった友人は、私とは違い、まっとうな社会人だった。それなりの学校を出て、大手の企業に勤めていた。たしか二人の娘が居たと思う。定年退職後は子会社の役員をしていると、何年か前の年賀状に書かれていた。

彼とは、三十代の頃、高円寺のガード下で、よく一緒にギターを弾いて歌を歌った。
「営業職の休まらない神経が、こうしていると安らぐよ」と、スーツ姿で路上に座って笑っていた。一にも二にも、ビートルズが好きな男だった。

ふと工場の廃屋が目にとまり、黄色い立ち入り禁止のロープをくぐって、私は敷地に入り、自転車を停めた。
雑草が繁るだけの誰も居ない庭に、一本の桜の木が立っていた。
桜は満開だった。
私は煙草に火を点け、それを見上げた。

二十年ほど前、その彼と、若くして死んだ別の友人を見送った事がある。

「人間、何があるか分からんもんだな」と、そんな話をした。

その彼も、いま世を去った。

そうして私は、まだ「ここ」に残っている。

良寛の、

〈散る桜 残る桜も 散る桜〉

そんな句を思った。

人生は風に舞う春の夢。

それでいい。

#71 桜

暖かな陽の差す春の午後、
なんだか意味もなく幸せな気分で、ぼんやり町を眺めている。
この二週間ほどのあいだ町を彩りつづけた桜たちが、いまはもう、ハラハラと散り始めている。
ごくろうであった、とエラそーに桜たちをねぎらいながら、窓辺でひとつの春を見送っている。

こないだ、このブログの管理人のA君と熊本の温泉に行き、その帰りに通った名も知らぬ町で、たまたま桜祭りなるものをやっていて、いい夜桜を見させて貰った。 桜というのはこんなに匂うのか思うほど、山いっぱいに桜が咲きこぼれていた。

桜に纏わる記憶はいろいろあるが、やはり思い出されるのは、入学式、卒業式、だろう。
と書いてふと思ったが、卒業式と入学式との間にはひと月近い時間が有るように思うのだが、そんなに長く桜が咲きつづけていたとも思えないので、このへんは記憶が自己装飾しているのかも知れない。 まあ、どうでもいい。
私には確かに、桜に迎えられて入学し、桜に見送られて卒業した、そんな記憶が勝手に有る。
ああそうだ、私は縁あって母校の校歌を書かせて貰った者である。
小中一貫校となるのを機に校歌の歌詞を新しいものにしたいということで、話が来た。
わが古里の子供逹は、この春、私の贈った言葉を歌ってくれたのだろうか。
幸せなことである。

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