市議会選挙があるらしい。
土曜日のうららかな午後、
「高橋ナントカでございます!」
「高橋ナントカでございます!」
「有り難うございます!高橋ナントカでございます!」
窓の下で叫びまくっている。
高橋ナントカにだけは投票すまいと、心に誓った。
第16回太宰治賞受賞作家 小説家・シンガーソングライター
窓辺でボンヤリ春の陽を浴びている。
暇があればそんな事をしている。
陽を浴びるとビタミンDというのが体内で生成されるというのを近頃知った。
俺の体はもはやビタミンDだらけかも知れない。
しかし陽を浴びるだけで摂れるビタミンというのも面白いな。
人間やる気になれば光合成だけで生きられるのではないか。
しかし光合成で百年生きた所で、何か意味があるだろうか。
無いだろな。
何か実をつけるなり、花を咲かすなりすれば、多少は意味が有るのかも知れない。
そういう意味では、俺という駄木も、幾つかの実をつけはしたのかも知れない。
幾つかの歌をつくり、幾つかの物語を書いた。
あれらが誰かの何かの足しになればいいなと思うばかりである。
この時期に、もうツバメがいた。
いてもいいのかも知れないが、なんとなく初夏という印象がつよいので、思わず足を止めて見てしまった。
近所のスーパーの入口でのことである。
そういえば、と、毎年、このスーパーの入口に巣を掛けるツバメがいて、去年、ケータイでそれを写真に撮ったことを思い出した。
あのときのヒナが、おまえか?
そこに巣を造るつもりでいるらしい一羽のツバメを眺めながら思った。
何年前だったか、ツバメの面白い行動を見たことがある。
やはりスーパーの入口での事だったが、自動ドアの前で盛んにホバリングを繰り返すツバメがいた。
見ていると、そのうちセンサーがツバメを感知して、ドアが開き、ツバメは、そこからスゥーっと店内に入っていった。
いや中に入っても、おまえカネもってないだろ、
とかしょうもないことを思いながら見ていると、ツバメは慌てるように戻ってきて、閉じようとするドアのわずかな隙間から、スイ、っと抜け出て、また空へ高々と飛翔した。
おー、とその鮮やかさに見とれていたが、ツバメはそれで懲りたふうでもなく、また戻ってきて、ホバリングして、ドアを開け、スイ、っと中へ入る。 中の照明に群がっている小さな虫を喰っているのだと、そのうち解った。
鳥や動物が賢いのは知っているが、それにしても、自動ドアの前でのホバリングって…
おそらく、そこで羽ばたいたときに偶然ドアが開いた事が過去にあって、それを学習したものなのだろうが、
たいしたものだな、と感じ入った私であった。
昨日、散歩をしていて目を疑うような場面があった。
横断歩道を渡ろうとしている老婦人の鼻先を、赤のセダンが猛スピードで走り抜けていったのである。
私はすこし後ろでそれを見ていた。
風圧もあったのだろう、婦人はすこし後ろによろけ、なんとか体勢を立て直したものの、しばらくのあいだ呆然とそこに立ち尽くしていた。 驚きのあとに湧いてきた恐怖に縛られてしまったかのようだった。
たいして交通量の多い道路ではなかったが、いつまでも立っているのは勿論危ない。
背中に軽く手をあてて、私は婦人と一緒に道路を渡った。
走り去った車のドライバーは、若い女だった。
あのドライバーは、婦人が横断歩道を渡ろうとしているのを確かに認識していた。
認識した上で、減速するどころか、加速して、かすめんばかりに婦人の鼻先を走り抜けていった。
運転に自信のある確信犯的行為というより、車が来れば歩行者は止まるだろうと信じこんでいる運転ぶりだった。
おそらくドライバー自身、肝を冷やしたのではないか。彼女にとっては「想定外」だっただろうから。
そこまで危険ではなくても、どうかと思うドライバーは少なくない。
思いつくままに書くと、
ウィンカーを点けずにいきなり曲がってくる、
右折の際、左しか見ていない、
ファミレスなどで白線を無視して思い切り斜めに駐車している、
信号で停まると必ずエンストする、
そんなクルマが、いつからか、ひどく目につくようになった。
ほんとに免許証もってんのかよ、と思う。
私が車を乗り回していた頃には居なかったようなドライバーが、いま普通に居る。
そうした背景には、運転操作が簡便で解りやすいものになったという事もあるだろうが、同時に、「バカでもヘタでも免許証やっとけ、クルマが売れりゃそれでいい」的な、極端に言えばそんな社会意思がはたらいているような気もする。
未熟なドライバーに事故られた被害者は勿論災難だが、
未熟なまま免許証を与えられて、取り返しのつかない事故などを起こしてしまったドライバーも、或る意味、時代の被害者のような気がする。
内田裕也さんが亡くなったと聞いて、ふと22歳の時の記憶の断片が脳裡に浮かんだ。
原宿から渋谷へ向かう明治通り沿いに〈クロコダイル〉というライブハウスがあって、安岡力也さんが店長兼シンガーとしてやっているという店だった。
私は友人と、その夜、一段高いステージでプレスリーナンバーを歌う力也さんを、なんとなく見ていた。
べつに〈安岡力也ライブ!〉とかいうのでもなく、思いついて気まぐれにライブを始めた、という感じだった。
私と友人は、普通にビールとスパゲティーを飲み食いしながら、それを見ていた。
すぐそばの席にツイストの世良正則が居たり、前のほうにモデルのナントカ嬢が居たり、とそんな店だった。
ふと友人が、「裕也さんが居る」と私に店の隅をアゴで指してみせた。
言われてそっちに目を向けると、たしかにそれらしい人影があったが、暗いのと、遠いのとで、よくは分からなかった。
ただそれだけの記憶である。
内田裕也という人の芸能活動を、私は殆んど知らない。
ただいつだったか、近所に音楽マニアのマスターが居る店があり、そこでビートルズの武道館ライブを観た時、その前座を務める若き内田裕也を観た。 裕也さんはソロでアニマルズの〈朝陽のあたる家〉を歌っていた。
これがとても良かった。
内田裕也の〈朝陽のあたる家〉。
今夕あたり、またその店で聴いてみたいな、とそんな気持ちでいる。
ぱたり、と連絡をして来なくなる人が居る。
どうしたのだろう、と思うが、べつにこちらから連絡はしない。
カネ、あるいはモノを貸したままという場合もあるが、面倒臭いので、ほおっておく。
多くの場合、そのまま付き合いは無くなる。
一方で、すれ違うように、新しい知り合いが出来る。
新しい知り合いは、離れていった人物と似たポジションの人だったりする。
三塁手が欠けたチームに、新しい三塁手が訪ねて来る、といった感じだ。
欠員が出ると、時を置かず、補充機能が働く。
人生というのは生き物なんだな、とそんなとき思う。
そんなふうに、暮しの外皮を人が出たり入ったりするなかで、不動の何人かが、ずっと中核に友達として居る。
三十年、四十年、あるいはそれ以上の付き合いなので、おそらくジジイになっても友達なのだろうと思う。
「ジジイになっても」、
と、まるで若い人の言い草のような事を言ったが、考えてみると、62歳の俺は、すでに立派なジジイなのか。
以前、ふたつほど年上の女性が、「これからは老いとのタタカイなのよ」と力強く仰っていた。
タタカったって勝てんだろう、と思ったが、男と女では老いに向き合う意識が違うのかも知れない。
そんな事を書いている傍らで、いま、猫が床にゲロをぶちまけた。
拭かねばなるまい。
こないだ読み返したユングの本が面白かったので、それを書こうかと思っていたが、
まずはゲロ掃除である。
やれやれ。
壮大なユングの哲学さえ、猫のゲロの前では無力という、
これはこれで、真理なのかも知れない。
いい映画を観た後というのは、どこか遠くを旅して帰ってきたような、そんな気持ちになるものだ。
ゆうべ観た映画が、そうだった。
〈マンチェスター・バイ・ザ・シー〉
二時間ほどの、とてもいい映画だった。
べつに、ハラハラドキドキがあるわけではなく、ラストにカタルシスがあるわけでもない。
ただ坦々と、主人公と主人公を巡る出来事が語られていく。
その、風景や、言葉や、佇まいが、観ていて静かに沁みてくる。
いわば、ストーリーではなく、文体で読ませる小説、そんな感じの映画だった。
もう一本、
これも何の予備知識もなく観たのだが、
〈ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー:リミックス〉
これ、オモシロイです。
笑えます。
スカッとします。
おカネ、それなりにかかっています。
なんといっても、“木”でできているナントカ(名前忘れた)というキャラクターが、めっちゃ、くっちゃ、可愛くて、ゲラゲラ笑えます。
〈LEXX〉というB級カルトSF映画が以前あって、大好きでしたが、あの気配がします。
ゆうべは趣の違う映画二本で、たのしい真夜中でございました。