#72 散る桜

古い友人が亡くなったという知らせを貰った。
葬儀に来れるか、という尋ねに、行かない、と応えた。
行けない、ではなく、行かない、と伝えた。
たとえ身内の者が死んだとしても、私は葬儀などに出る気はない。
そんなものに出るより、何処かで一日その人のことを思っていたい。
異論はあるだろうが。

電話を切り、私は自転車で町外れに出て、春の川沿いの道を、とくにあてもなく走った。

亡くなった友人は、私とは違い、まっとうな社会人だった。それなりの学校を出て、大手の企業に勤めていた。たしか二人の娘が居たと思う。定年退職後は子会社の役員をしていると、何年か前の年賀状に書かれていた。

彼とは、三十代の頃、高円寺のガード下で、よく一緒にギターを弾いて歌を歌った。
「営業職の休まらない神経が、こうしていると安らぐよ」と、スーツ姿で路上に座って笑っていた。一にも二にも、ビートルズが好きな男だった。

ふと工場の廃屋が目にとまり、黄色い立ち入り禁止のロープをくぐって、私は敷地に入り、自転車を停めた。
雑草が繁るだけの誰も居ない庭に、一本の桜の木が立っていた。
桜は満開だった。
私は煙草に火を点け、それを見上げた。

二十年ほど前、その彼と、若くして死んだ別の友人を見送った事がある。

「人間、何があるか分からんもんだな」と、そんな話をした。

その彼も、いま世を去った。

そうして私は、まだ「ここ」に残っている。

良寛の、

〈散る桜 残る桜も 散る桜〉

そんな句を思った。

人生は風に舞う春の夢。

それでいい。