#28 言い訳

東京時代の知人で、敬愛するWさんから、「ブログ、読んでるよ」という連絡を貰った。
ありゃ、見つかってしまったか、というのが正直な気持ちである。
私は小説を幾つか書いたが、書きながら、いつもどこかで意識していたのが、このWさんだった。私にとって、言葉、というものを知っている尊敬できる人であり、ズボラでテキトーな私が、小説に関してそれなりに真摯に向き合えたのは、このWさんのお陰だったと思っている。 そのWさんが読んでるのか、と思うと、ここで少しの言い訳をしたくなった。

このブログで私がやっているのは、手元のケータイで書いた文章を、友人A君の作成してくれたブログアドレスに送るだけなのだが、たぶんそれが、途中で経由する機器の書式に変換されてしまうのだろう、改行が変わっていたり、一行空いていたり、改行したツモリがされてなかったり、と、いろいろ経由機器と気が合わなかったりする場合がある。 気になる時はA君に頼んで修正して貰っているのだが、あまり読み返さないので、気づかずそのままのものも、たぶんあると思う。

Wさん、もし文面にギクシャクした所があったとすれば、それは以上のような、機器の正直さゆえのことであります。
文章書きのハシクレとして、ささやかなプライドとともに、ここに言い訳をさせて頂く次第であります。

ps.
Wさん、お互い健康に留意して(おまえが言うな?)元気なうちに、またお会いしましょう!

#27 マイウェイ

三十代の頃、新橋の酒場でバイトをしたことがある。
友人の叔母さんがやっていた店で、この叔母さんには本当に良くして貰った。
新橋という場所柄、客層は殆んどがサラリーマンで、どの人も、そこそこの企業に勤めている人達のように思われた。
この人達が、必ずと言っていいほどカラオケで歌うのが、フランク・シナトラのマイウェイだった。

酒に上気した顔で、ネクタイを緩め、ヘッタクソに歌うマイウェイを聞きながら、私は内心、ケッ、と思いながらも、歌が終わると、一応、パチパチとおざなりの拍手を送ったりしていた。 これも時給のうち、そう思いながら。

いま自分が六十を過ぎて、あの時のオジサン逹の気持ちが、なんとなくわかる気がする。

シナトラのような華麗な人生だけがマイウェイではない。
市井の、名もない、その他大勢の一人一人にも、その人だけのマイウェイがあるのだ、と。

会社勤めの経験がないので、サラリーマンの世界はよく知らないが、同期に入社した者が先に出世したり、不本意な異動があったり、上司に理不尽に叱責されたり、なんやかんやあるのだろう。 そんな、なんやかんやのなかで、ローンを組み、家を建て、家族を守り、毎日何時間もかけて、会社へ通う。

どこぞで滝に打たれている坊主などより、よほどの苦行かと思う。

そんな人達が、ひととき、マイクを握り、歌のなかに自分の人生を映し、三分ほどの夢を見る。

三十年前、新橋の片隅でマイウェイを歌うオジサン逹に、もっと拍手をすればよかったと、いま、思ったりするのである。

#21 歌手

昨日の日曜日、私の住む町では〈街道祭り〉なるものが催されていた。
旧長崎街道の宿場町だったということで、ブラスバンドを先頭に、〈参覲交代〉というプラカードを持った、大名やら家来の侍やらが町のメインストリートを行進していた。 そのまま江戸へ行くのだろうと思ったが、そんなこともなく、ただ市内をウロウロしていた。
秋晴れの午後、私は窓からそんな賑わいをぼんやり眺めていた。
因みに家老に扮していたのは電気屋のオヤジだった。

行進のあと、歌謡ショーが始まった。
といっても、アーケードのなかでやっているらしく、様子は見えない。声だけが聞こえてくる。

「◯◯レコードの専属歌手、◯◯でーすっ、みなさん、こんにちわーっ」

と三十代前半くらいかと思われる声で女性歌手が言っている。
こんにちわぁ、と数人の淋しい反応がある。
アーケード内の広場にパイプ椅子を並べただけの会場が私に想像され、そしてそこに座る観客が数えるほどの人数であることも、その淋しい反応から伺い知れた。

「それでは、私のデビュー曲、◯◯酒場、きいてください!」
歌手は言い、◯◯酒場のイントロがはじまる。
私は窓辺の机に頬杖をついて、ぼんやりと、◯◯酒場をきいた。

やがて歌がおわり、パチパチと疎らな拍手が聞こえ、
「ありがとうございますっ、ありがとうございますっ」と歌手はそれに応えていた。

そんな様子を耳にしながら、思い出す風景があった。

その昔、私も同じようなことをしていた。
二十一歳の私は某レコード会社の歌手であり、三十代半ばのマネージャーと、デビュー曲をかかえて全国を旅していた。
土地土地の地元のラジオにゲスト出演させて貰ったり、合わせてブッキングした会場でライブをやったり、そんなプロモーションをつづけていた。

あれは、仙台だったろうか。
ショッピングモールに常設してあるサテライトスタジオでライブをやったことがある。
私の場合、演歌ではなく、当時でいう所のニューミュージックというやつで、自分でつくった歌をギターを弾きながら歌う、というスタイルの音楽をやっていた。 その日、サテライトスタジオの客は十二人だった。
数えたマネージャーが、あとで私にそう言った。
その十二人も、べつに私の歌が聴きたくてそこに居るわけではなく、買い物帰りの人や、近くで飲食した人などが、ただなんとなく居る感じだった。 新人のプロモーションなど、そんなものである。
私はべつに抵抗もなく歌った。十二人のうち一人でも私の歌に興味を持ってくれれば、それでいいのである。
だが、マネージャーは違ったようだった。

「なんだよ、百人は集めます、とか言いやがって、十二人かよ」
ライブ後に夕食をとっていた食堂で、マネージャーは苦々しげに言った。
「カネだけ取りやがって、何にもやってねえじゃねーか」地元のプロモーターにそう毒づきながら、ビールを何杯も、あおっていた。

空腹だった私は定食か何かを食べていたと思う。
その私に、マネージャーは、「歌いにくかったろ?」と尋ね、「…十二人はねえよな」と頭をかかえるように呟いた。
マネージャーとして、自分の責任のように感じていたのだろう、空のコップにビールを注ぎながら、
「ツジウチ、すまなかったな」私を見ないで、そんなことを言った。

〈街道祭り〉の歌謡ショーを聞きながら、遠い日のそんな場面を思い出していた。

酒好きで、喧嘩っ早くて、小石川生まれの江戸っ子だった金子さん、

二人で街から街へ、いろんな旅をしましたね。

元気でやってますか。

      *

#20 柿

スーパーで柿を一個買った。
普段、果物はあまり食べない。せいぜいバナナくらいのものだ。
バナナは塩分摂りすぎ気味の私に友人が勧めてくれたもので、カリウムが豊富でいいとのことだったが、カリウムが何なのかよく知らないまま、安いので買って食べている。

バナナ以外には葡萄をたまに買うくらいで、柿を買おうなどと思ったことは一度もない。
これはたぶん少年期の記憶が影響していて、柿などは、よその家の庭のものを勝手にちぎって喰うものであって、カネを出して買うものではないと、そう自分のなかで決めつけているフシがある。 無花果(いちじく)、びわ、などもやはりそうで、それらは、買うものではなく、「勝手にちぎって喰うもの」として私のなかに今もある。 もっとも、この年齢でそんな真似も出来ないので、必然的に、無花果もびわも、日常、ほとんど口にすることはなくなった。

柿もまた、最後に食べたのがいつだったか思い出せないほど縁遠い食べ物になってしまっていたが、何故か今日、スーパーの入口近くに並べられた柿がふと目にとまり、一個を手にとって、なんとなく、そのまま買って帰った。

部屋に戻り、皮を剥いて、切り分けた柿の一つを口にいれ、噛んだ瞬間、まるで音がするように、小学生の頃の運動会の風景が、脳内にひろがった。

あ、運動会、と思わず声がでた。

秋晴れの空の下、母がフォークに刺して差しだした柿を、運動場に敷いた呉座(ござ)の上で頬張っている自分が、頭のなかで鮮やかに再生された。

白い体操着に赤い帽子を被った私は、短パンから突き出た膝を立てて座り、柿を食べ、巻き寿司を食べ、水筒の麦茶を飲んでいる。
運動場には幾つものテントが張られ、万国旗が風にはためく下で、それぞれの家族達が賑やかに昼食をとっている。
三十代の母は、私や兄たちの世話をしながら、ふっくらと張りのある顔で笑っている。
その隣に祖母が居て、無心に弁当を食べる私を、目を細めて見つめている。

私はこの祖母に愛されて育った。

四人兄弟の末っ子だった私は、母が仕事をしていたということもあり、幼少期の多くの時間を、この祖母とともに過ごした。
祖母の姿が見えないと泣きながら家中を探し回るほど、幼い私はこの祖母を慕っていた。

やがて少年となり、青年となり、私の祖母への思いは次第に薄れていったが、祖母は終生、私を愛して、七十二歳のとき、風呂場で死んだ。

私と過ごす時間が少しづつ少なくなり、会話も限られたものになり、私の気持ちがどんどん他へ向かっていくなかで、あの頃、祖母はどんなに淋しかっただろうと、一個の柿を食べながら、思った。

#19 モノとヒト

夏頃にこのブログを始めて、ふた月ほどになる。
ふと思ったことや、かねてから感じていたことをツレヅレに書き綴るのは一寸した充実感があったし、書いてみることで、それぞれの言葉の置場所を自分の内に見つけられる気もした。

週に一本か二本程度の投稿だが、あくまで書きたいことがあって書くという作業なので、吸った息を吐くような、無理のない行為であった。

この所珍しく用事が重なり、ふと、ブログしばらく書いてないな、と思ったとき、何か書くことはないかと無意識に〈ネタ〉を探している自分に気がついた。 (ああ、こういう心理は良くないな)そう思った。
ブログという道具に煽られているような気がした。

以前観た映画で「ナイトクローラー」という不気味に面白い映画があった。
事件、事故の現場などを生々しくカメラに収めてテレビ局に売りつける、いわゆる報道パパラッチと呼ばれる男の話だったが、次第にエスカレートし、自分で事故現場に手を加えたり、挙げ句には殺人まで演出してしまうという怖い話だった。

いま世間でユーチューバーといわれる類いの人達にも、そんな心理が常に働いているのではないだろうか。
自分の子供に虐待まがいのことをして、その動画をアップして大金を得たという両親の話を友人に聞いたことがあるが、もはや、そんな時代というほかない。

人間が急速に変容しつづけている。

人間がモノを創る季節が終わり、モノが人間を造る季節に入ったのだという気がする。

ここに至って私は、何を書きたかったのか、また忘れてしまった。

下書きしろよ、辻内。

#18 意識

なぜ、この自分なのか、と思う時がある。

人と話しているとき、メシを食っているとき、スーパーのレジに並んでいるとき、日常のふとした隙間に、なぜ自分は、「この」自分なのだろう、と思われてくる時がある。

日本の、田舎町の、地方公務員の家の四人兄弟の末の子として生まれたという私の生い立ちは、いつ設定されたのかと、まじめに考えてみたりする。

そんなとき、なんとなくだが、意識と体を別々に感じたりすることがある。
体は辻内某のままだが、意識は「誰でもない」という感覚。
また「誰であってもいい」という感覚。
自分のものではない記憶が一瞬よぎる感覚。

脳内現象にすぎないのだろうが、へんにリアルだったりする。

何らかの精神疾患なのかと思わなくもないが、一応、客観性は保っている。
気分としてもマイナスのものではなく、なにか広々とした解放感を感じる。
個体ではなく、気体に近い感覚である。

全ての場所に同時に居るかのような感覚。
こうしていることのわけが一望に見渡せる場所に居るかのような感覚。

あの風のような感覚。

あれが死というものならいいな、と思ったりする。

      

#14 時の川

樹木希林さんが亡くなった。
私などには、悠木千帆、という響きのほうが懐かしい。
ドラマ「時間ですよ」のハマさん、だった。
また、「寺内貫太郎一家」の、きん婆ちゃん、でもあった。

この所、親しんだ芸能人、著名人の人が次々に亡くなっていく。
しかもそれが次第に加速しているような気さえする。

それはつまり、私自身が老いたからなのだ、ということに、この頃ハタと気がついた。(今頃かい)

考えてみれば、私は、自分を川岸に置かれた定点カメラであるかのような気分で生きてきた。
目の前を時間の川が流れ、そこを過ぎていく見知った人達を眺めては、ああ誰々も老けたな、誰々は亡くなったか、などと、まるで自分は時間の外に居るかのような気分で居たが、気がつけば、そんなことはなく、私も一緒に時の川を流れていたのだった。

流れるほどに、私も老い、やがて死ぬ。
それもそう遠いことではないんだなと、ちかごろ皮膚感覚でそう感じるようになった。

しかし思うに、この川の先は一体どうなっているのだろう。
流れの果てに、なにか生死を分ける滝のようなものでも有るのだろうか。
その滝に、ひとり、ふたり、と呑まれて落ちていくのが、死というものなのだろうか。

だとすれば、きっと、一人一人流れる早さが違うのだろうな。
二歳で死んだ子もいる。
傍に居る我々は、余りに早すぎる、そう呟くしかないが、本人は、もしかしたら、それで充分、人間の川を流れきったのかも知れない。何十年も流れる必要のない命だったのかもしれない。 我々は、いつか晴れて滝を落ちていける自分になるために、六十年、七十年、流れつづけるのかも知れない。

それにしても、滝に落ちて、更にその先は何んなのだろう。
音をたてて滝壺に落ち切ったとき、何か違うべつの〈もの〉に、我々はなるのだろうか。

#13 森田童子さん

森田童子さんが亡くなっていたことを、私はしばらくのあいだ知らなかった。
〈森田童子を支持する会〉という所から電話があり、「追悼式に何かコメントを頂けないでしょうか」と言われて初めて知った。

この頃、彼女の歌をよく聴いている。じつは今も聴いている。晴れた午後に、彼女の歌はよく似合う。
そのまどろむような歌声を聴いていると、過敏な神経にあえぎながらいつも助けをもとめていた少女のような姿が(勝手に)想像され、何かとても、いたわってあげたいような、そんな気持ちになる。

セレモニーとしてではなく、私個人の追悼として、そのとき書いた言葉をあらためてここに記したいと思った。

      *

森田童子を偲んで。

あれは四月の何日の事だったのだろう。
暖かな春の午後、ふと思いたって部屋の片付けを始めた。
要らないものを捨て、残すものを棚に押し込み、そんな事をしているとき、棚の奥に昔のフォークソングを集めた一枚のcdを見つけた。 ふと、久しぶりに森田童子が聴きたくなった。
片付けの手を休め、そこに収録されている「僕達の失敗」を聴いているうち、私は、なぜか泣いてしまった。
〈久しぶりに森田童子を聴いたら泣いてしまったよ。トシのせいかね〉そんなメールを宮崎に住む友人に送り、苦笑するように煙草に火を点けた。春の光が窓に射し込む、暖かな午後だった。

世の中の出来事に殆ど無関心に暮らしている私は、森田童子が死んだ事をずっと知らなかった。つい数日前にその事を知った。四月の某日に亡くなったと聞いたとき、彼女の歌をひとり聴いたその四月の午後の事を思い出した。そして、あれは四月の何日だったのだろうと思い、あのとき森田童子は逝ったのだろうか、などと勝手な事を考えてみたりした。

森田さん、すてきな言葉と歌声をありがとう。
お疲れ様でした。よい旅を。

辻内智貴

     *

ちなみに彼女の命日の四月二十四日は、私の誕生日でもある。 

#12 キレイゴトもほどほどに

世の中、キレイゴトだらけである。
寝る前にニュースでも見ようかとテレビをつけると、いきなり、

「夢は必ず叶う!」

とか言ってタレントがガッツポーズをしたりしている。
「なわけねーだろ」と、ついツッコんでしまう。

「人間は素晴らしい!」
「人生はワンダフル!」
あっちでこっちで、そんなことばかり言っている。
そんなプラスの言葉ばかりに埋め尽くされて育った子供は、やがて成人して世の中に出たとき、きっとこう思う。

「人間は素晴らしくなんかないじゃん!」「人生はワンダフルじゃないじゃん!」

いやいや人間は充分素晴らしいし、人生はそこそこワンダフルなのだが、彼がそう思えないのは、人間や人生に対する期待値が高すぎるのである。 キレイゴトに洗脳されて期待値がいきなり目盛り90あたりから始まっているから、少々のことでは満足できないし、逆に、少々のことで傷つき、絶望する。 そんな絶望が臨界点に達したとき、知性がある場合は鬱病になり、知性に乏しい場合は、通り魔殺人などをしでかす。

極論ではあるが、そんな構図が見える気がする。

キレイゴトは、ほどほどにしといたほうがいい。

#9 目に見えぬもの

哲学者で、京都大学の教授だった西田幾多郎さんは、幼い娘を病気で亡くしたとき、その悲しみのなかで「我が子の死」という随筆を書いている。
一部抜粋してみる。

「…今まで愛らしく話したり、歌ったり、遊んだりしていた者が、忽ち消えて壺中の白骨となるというのは、如何なる訳であろうか。もし人生はこれまでのものであるというならば、人生ほどつまらぬものはない、此処には深き意味がなくてはならぬ、人間(略)は、かくも無意義のものではない(後略)」

四十代だった私は、読んで強く共感した。
私などがあの西田幾多郎に「共感」などと言うのはおこがましいのだろうが、氏の語る言葉の芯のようなものが、すとん、と私にはいってきた気がした。

ちょうど、阪神淡路大震災、一連のオウム事件、と、人間の幸福よりも、そうでない部分のほうが目につく時期だったせいもあるのかも知れない。
 
     *

もし人生というものが、目に見え、手に触れ、耳に聞こえるもの、ただそれだけのものだとしたら、
「人生ほどつまらぬものはない」
私もそう感じる。

産まれて、生きて、死ねばそれきりの、ただそれだけのものだとしたら、
悲しみや不幸が、ただ悲しみや不幸として置き去りにされるだけのものだとしたら、
そんな解りきったことだけで人生というものが出来上がっているのだとしたら、

そんな人生なんぞ、たったいまやめてしまうがいい、とさえ思う

      *

私は、この足りてない頭で、性懲りもなく、宇宙というものを考える。
人間がこうあることのカラクリと、そのカラクリを宿して宇宙は一体何をしたいのかと考える。

わかるわけがない。

だが、それでいいのだとも思う。

私はたぶん、それをわかりたくて考えるのではなく、それはわからないのだということを確かめたくて考えている気がする。大事なのは、わからない、ということなのだと。

わからないから、そこに幸福や希望を問うことができる。
問いつづけるかぎり、問いとしての幸福や希望は失われない。
問いつづける私は、問いつづけることで、問いとしての幸福や希望に出会うことができる。

     *

だからどうした、とか言われそうである。
べつにどうもしやしない。
あした晴れるといいね。