#9 目に見えぬもの

哲学者で、京都大学の教授だった西田幾多郎さんは、幼い娘を病気で亡くしたとき、その悲しみのなかで「我が子の死」という随筆を書いている。
一部抜粋してみる。

「…今まで愛らしく話したり、歌ったり、遊んだりしていた者が、忽ち消えて壺中の白骨となるというのは、如何なる訳であろうか。もし人生はこれまでのものであるというならば、人生ほどつまらぬものはない、此処には深き意味がなくてはならぬ、人間(略)は、かくも無意義のものではない(後略)」

四十代だった私は、読んで強く共感した。
私などがあの西田幾多郎に「共感」などと言うのはおこがましいのだろうが、氏の語る言葉の芯のようなものが、すとん、と私にはいってきた気がした。

ちょうど、阪神淡路大震災、一連のオウム事件、と、人間の幸福よりも、そうでない部分のほうが目につく時期だったせいもあるのかも知れない。
 
     *

もし人生というものが、目に見え、手に触れ、耳に聞こえるもの、ただそれだけのものだとしたら、
「人生ほどつまらぬものはない」
私もそう感じる。

産まれて、生きて、死ねばそれきりの、ただそれだけのものだとしたら、
悲しみや不幸が、ただ悲しみや不幸として置き去りにされるだけのものだとしたら、
そんな解りきったことだけで人生というものが出来上がっているのだとしたら、

そんな人生なんぞ、たったいまやめてしまうがいい、とさえ思う

      *

私は、この足りてない頭で、性懲りもなく、宇宙というものを考える。
人間がこうあることのカラクリと、そのカラクリを宿して宇宙は一体何をしたいのかと考える。

わかるわけがない。

だが、それでいいのだとも思う。

私はたぶん、それをわかりたくて考えるのではなく、それはわからないのだということを確かめたくて考えている気がする。大事なのは、わからない、ということなのだと。

わからないから、そこに幸福や希望を問うことができる。
問いつづけるかぎり、問いとしての幸福や希望は失われない。
問いつづける私は、問いつづけることで、問いとしての幸福や希望に出会うことができる。

     *

だからどうした、とか言われそうである。
べつにどうもしやしない。
あした晴れるといいね。