#82 自宅ライブ「道」


心のままに 生きて
心のままに いま
気がつけば いつか日は暮れて
ふり向く こんな遠い町で

幸せという 言葉
かなしみという 言葉
町角に いま零れて
消えてく 夢の欠片のように

時は遠く 流れ
心を遠く 運ぶ
また巡る ことがあるなら

もう一度 この道を歩く

*

#80 初めてのお使い

「部屋で撮ったライブ動画をブログに送信したいのだが、容量オーバーで送れない」

という事をこないだここに書いたら、それを読んだのだろう、東京の後輩が、「YouTubeにupして、そのリンクをブログに貼り付ければ出来ますよ」とそう教えてくれた。

有り難いアドバイスなのだが、〈リンクをブログに貼り付ける〉この言葉自体が私には外国語に思える。

ナニをナニに貼り付けるって?

しかしまあ、考えてみれば、ブログにせよ、歌にせよ、管理人であるA君に負担をかけっぱなしの私である。
少しは自分でやってみるか、そう思う。

やってみれば、ああそーゆー事か、こーゆー事か、とおいおい見当もつくだろう。
真っ暗な洞窟で少しづつ目が慣れてくるように。

たぶん。

メイビィ。

アイホープソウ。

#79 証し

散歩の途中でふと思いつき、100円ショップに寄って「スマホスタンド」なるものを買って帰った。

以前このブログの管理人であるA君が「100均でそーゆーのを買えば自分の部屋で簡単にライブ動画が撮れますよ」と言っていたのを思い出したのである。

川沿いをブラブラ歩きながら最近つくった自分の歌をくちづさんでいるうち、(ああ今の自分の歌を残しておきたいなあ)という思いがつよくなり、ふと、以前のA君の言葉を思い出したのである。

人生の第四コーナーをすでに廻った今、手元にある自分の歌を外に放出しておきたい、無視されようが関心を持たれようが、せめて世の中に置いてやりたい、そんな気分がある。

で、夜、机にスタンドを置き、それにスマホを立て、その前で三曲ばかり歌って動画に撮ってみた。

集合住宅なので隣室に気を使いながらの遠慮がちなライブではあったが、再生すると、まーまー、聴ける程度の音は録れていた。

だからとりあえず音はそれでいいとして、しかし、いやはや、歌う自分の映像にはマイった。
考えたら、こんなふうに自分を客観的に見ることなど殆んど無かった。
(…ああ俺、老けたなあ)
解りきった事ではあったが、それをまざまざと感じる時間だった。

しかしまあ、これも俺という男が存在した証しだ。

そう思い、その動画をこのブログに放り込んでおこうとしたのだが、

「容量オーバーで送信デキマセン」

スマホはニベもなく言うのだった。

なんだそうなのか。

サッパリ解らん。

ちぇっ。

*

#78 グリーンマイル

窓から町並みを眺めているうち、スティーブン・キングの「グリーンマイル」という小説を思い出した。

映画にもなったので知ってる人は多いと思うが、あのタイトルである「グリーンマイル」というのは、死刑囚が刑場へ向かう通路の事なのだと何かで読んだ。

アカデミー賞候補がレッドカーペットを歩くように、死刑囚は刑場に向かってグリーンの通路を往くのだとか。

実際にそれが緑色をしているのか、緑色というものを何かの象徴としたスラングなのか、よく知らないが、ただ、それを読んだ時、つまりは我々もまた、生まれた瞬間から死に向かって歩き始める、それぞれのグリーンマイルを往く囚人なんだなと、そんな事を思った。

だからどうしたという話でもなく、ただ思い出した事を書いてみたかっただけである。

いろんな人生があるが、所詮は「通路」なんだなと、夏を思わせる六月の日差しのなかで、ふとそう思っただけの事である。

行き止まりの通路なのか、何処かへ通じるドアの待つ通路なのか、それは知らないが、むしろそれを決めるのは、この通路を自分がどう歩くかという事なのかも知れない。

たかが野球、されど野球、と言ったのは江川だが、
たかが通路、されど通路、
そんな気はする。

#77 ターザン

こないだ散歩の途中で友人の仕事場へ寄り、昔のテレビ番組の話などをするうち、ターザンの話になった。

あんなジャングルの奥地にナゼ筋骨逞しい白人の男が居たのだろうか、と友人Bが言う。
そういやそうだな、とターザンの生い立ちを二人で考えてみた。

もしかしたら劇中でちゃんと説明されていたのかもしれないが、そんなものは忘れてしまっているオヤジ二人である。

いろいろ考えた末、探検家の父親についてきた息子がジャングルで父親にはぐれ、取り残され、なぜかそこでスクスクと育ったのではないか、と、そんな事にしておいた。

それにしてもターザンは、いま思えば、あのジャングルでいったいナニとタタカッていたのだろう。

泳いだり、走ったり、ワニをやっつけたり、ツルにぶら下がって雄叫びをあげたりしていたが、もしかしたら、あの男さえ居なければジャングルは平和だったのではないか。 あのデカい男が一人でジャングルを騒がせていたのではないか、
ターザン、もしかしたら迷惑な奴だったのではないか、

そんな気もした。

関係ないが、古い知り合いに「ターザン丸山」という男が居る。
二十代の頃、南九州をライブツアーしたときの音響スタッフだった。
今も久留米のほうで元気に音楽関係の仕事をしているらしい。
奥さんの名が「ジェーン」なのかどうか、それは知らない。

#76 暇だ

暫くブログを更新しなかったら、すっかり死んだと思われているらしい。

「ツジウチ、死んだらしいぞ」と本人にメールしてくる奴まで居て、あやうく信じそうになった。

落語で行き倒れの死人を自分と勘違いして、「おい、俺、死んじまったのかよおっ」とか言って泣いているうち、ふと、「だけど死んでるコイツが俺なら、泣いてる俺は誰なんだ?」と気がつくというものすごいハナシがあるが、一瞬あんな気がした。

とか言っているうちに世の中はレイワとかになったらしいね。
令和、って書くんだっけ。
まあ良い時代になってくれれば、と思うのみである。

しかし元号が変わったトタン、万葉集がバカ売れしたり、今まで見向きもしなかった神社に人が殺到したり、大衆ってのもなんだかなあという気はする。

紙幣も一新されるらしいが、俺は樋口一葉という人が好きなので、淋しい気がしないでもない。
万札は誰なんだろう。
福沢諭吉とは疎遠だったな。
聖徳太子あたりがカムバックしてくれると、昭和ラブの俺としては嬉しいのだが、無理か。
いっそのこと、一万円は金太郎、五千円は桃太郎、千円は浦島太郎、でどうだ。

どうだ、って言われても。

まあ、いいや。

風薫る五月。

暇だ。

#75 誕生日

昨日は63歳の誕生日であった。
何人かから〈おめでとうメール〉などを貰ったりした。
さすがに男友達からそういうのは無い。
あったら気持ちわるい。

で、暇なので、この、人間が〈生まれた日を祝う〉という行為は何なのだろうと考えてみた。

皆、普通に自然に当たり前に、お誕生日おめでとう、などと言う。
多種多様な民族がある事を思えば、生まれてきた事を呪う文化や風習が何処かに有ってもよさそうなものだが、たぶん無いだろう。

国を問わず、人種を問わず、宗教を問わず、また貧富も問わず、老若も男女も問わず、世界中の町々で今日も無数に誕生日が祝われている。

これはもう人間の本能としか思えない。
そして本能というのは真理を持っている。
従って、この世に生まれて来るというのは、本当に、祝福すべき事なのだろうと推察できる。

〈人間として生まれてくる事は奇跡に近い幸福だ〉と道元も言っていた。

しかし。
にしては、親が子供を殺したり、子が親を殺したり、誰かが誰かを苛めたり、騙したり、踏みつけたり、倒したり、そんな事が多すぎやしないか。

〈いちばん良いのは生まれてこない事だ。生まれてきたら、さっさと死ぬ事だ〉
by ニーチェ。

これはこれで言えている気もする。

人生は汚濁の海を行く航海であるか。
時に岩礁に乗り上げ、時に沈みつつも、大切な何かに出会うため、人は生まれて来るのかも知れない。
汚濁のなかにたとえ小さくとも光を見つけたなら、人生はもう、それでいいのかも知れない。

とキレイにまとめてしまった私であった。

ハッピーバースデイ。

#74 マヤカシ

薄日の射す暖かな午後。
(アイスクリームが食べたいな)、などと呑気な事を思いながら窓辺で町を眺めていたが、ふと遠くの、いつもは緑鮮やかにクッキリ見える馴染みの丘が、今日は濁ったように白く霞んで見えているのに気がついた。

黄砂だか、PM2.5だかのせいだろうか。

〈PM2.5注意報〉という言葉をテレビで初めて見た時、(午後2時半に何が起きるんだろう)と思ったものだが、そうではなく、これは喘息持ちやアレルギー持ちには厄介な有害物質らしい。 かくいう私も他人事ではない。

何年か前に呼吸困難でICU行きになった事があり、以来、呼吸器の具合が良くない。吸引ステロイド剤のおかげでなんとかやっているが、この頃はカネがないので毎日やるべき吸引を二日に一回に減らしたら、「呼吸器の病気は、突然悪化して、突然死ぬよ!」とかいってオコられた。 まあ確かに、呼吸困難時のあの恐怖は憶えているので、あーゆーのは嫌だな、と思う。
熱したフライパンに落ちた水滴が、シュン、と一瞬で蒸発するように死ぬのなら、べつにそれでいい気はするが。

しかし人間がそんなふうに自分で意図して死ねるなら、つまり自死がそれほどカンタンな事なら、世界の人口は今の半分も無いのではなかろうか。 いや雪崩現象で、それ以下になるかも知れない。
富裕な特権支配層は自死などしないだろうが、しかし特権支配層が支配する大衆の大半が死んでしまったら、特権支配層は特権も支配も失くした、ただのオジサンやオバサンに成り果てるのだから、これもじき死ぬだろう。 そうなってはコマる、という宇宙だか神だかの思惑で、我々は〈死〉に対して脅えるように造られている。
〈死〉と〈恐怖〉のセットというのは、じつはマヤカシなんだろうが、効果あるよなあ、確かに。

とかいらんこと言うてるうちに、何が書きたかったのか忘れてしまった。

#73 ドブの華 

知り合いがギターを貸してくれた。

自分のギターを持ってはいるが、十数年使ううちに色々不具合が出てきた所だったので、有り難かった。

真新しいそれを弾き下ろしてみると、じつにいい音がする。

ああ、ギターの音はこれだよな、と、古いギターに目を向ける。
ですね、と言うように、古いギターは壁に凭れている。
ボクは少し休んでます、と言うように。

それでこの数日、暇があれば、借りたそのギターを弾いている。

弾くと、そんな気も無いのに曲が出来る。

いまさら歌などつくっても儚いことだと思いつつ、やっぱり、つくってしまう。

Dを弾けば、Dのコードが持っているメロディーが分かる。
Eを弾けば、やはりそこに隠れていたメロディーが見えてくる。
メロディーを取りだすと、それに似合いの言葉がひとりでに生まれる。

そんな事をもう何十年もやってきた。

そうして出来た歌を、カセットに録り、コーヒーをいれ、煙草に火を点けて、ぼんやりと聴く。

うん、と一人満足する。

ささやかな、ささやかな、ささやかな、たしかな幸福が有る。

俺に出来るのは、こんなことくらいだ。

それを思う。

だったら、それをやればいい。

〈たとえドブの中に倒れても、私は前のめりに死にたい〉

坂本龍馬の言葉らしいが、そんな大層な話でもないが、少しだけ、似たような気分がある。