#3 台風

よくまあ次から次に台風が。
呆れる思いでテレビのニュースを見ていた。今回も各地で大きな被害がでている。
そんなときに不謹慎かも知れないが、ニュースを見ながら、ふと子供の頃の台風の夜を思い出していた。(あの頃の台風は、ノンキなものだったな)。そんなことを考えていた。
べつに昔の台風が今よりノンキなものだったわけでは、当然ない。死者何人、行方不明者何人、という台風はいくらもあった。台風がノンキだったわけではなく、自分たち子供がノンキだっただけである。ノンキという以上に、台風接近!とか聞くと、どこかワクワクするものさえ感じていた。
「午後から風雨が強まる」といった予報がでると、学校は午前中までで、家の近い生徒同士かたまって集団下校させられた。教員住宅が近所にあったせいか、先生と一緒に帰ったこともあった。
家に帰ると、親父は屋根の上でテレビのアンテナを針金で強化したりしている。母は縁側の鉢植えやら何やらを座敷に移している。祖母は祖母で、あれは非常食ということだったのか、汗をかくように大量のオニギリを握ったりしていた。近所のオジサンが屋根の上の親父を手伝いに来たり、公民館のスピーカーが台風への備えをハウりながら町内に促したり、そうした町じゅうの慌ただしさが、へんに子供心をワクワクさせるのだった。 追い立てられるように風呂に入らされ、早々とパジャマを着させられ、雨戸を叩く風の音がしだいに激しくなっていくなかで晩ごはんをすますと、お約束のように停電となる。
テレビも消えて、数本のロウソクに火を灯しただけのほの暗いお茶の間で、そんなとき母はよく子供達に歌をうたわせた。私は四人兄弟の末っ子だが、だからなのか、いつも最初に歌わされたような気がする。母によれば、坂本九の〈素敵なタイミング〉とかを私は歌っていたらしい。すぐ上の兄貴も歌が好きな男で、進んで何曲も歌っていた。姉もまた、のちに高校で合唱部に入るような人だから、そんなとき唱歌か何かをたぶん歌ったのだろう。いま思えば、けっこう歌好きな一家だったのだな。オーストリアのトラップファミリーほどではないにしろ。
ケータイもスマホもなく、一台のテレビを家族全員で見ていた頃の、そんな記憶がある。

#2 日テレ

この時期イオンモールで買い物をしていると、例の〈愛は地球を救う〉というテレビ番組の宣伝が盛んに聞こえてくる。どこの売り場に居ても、加山さん歌うところのあの歌が流れ、それにかぶせて、「今年もいよいよこの季節となりましたあ!」ジャーン!と女性がハイトーンで繰り返している。

〈愛は地球を救う〉。
毎年このフレーズを耳にするたびに、いいようのない脱力感をおぼえる。

なんて思い上がった…

そう思う。

これがたとえば、(神の)愛が地球を救う、というのであれば、まだ解る。共感するしないはともかく、そういう主張があってもいい。
だがここで言われている地球を救う〈愛〉なるものは、神の愛でも、仏の愛でもなく、〈人間〉の〈愛〉のことらしい。〈わたしたち人間〉の〈愛〉が地球を〈救う〉と言っているのらしい。つまり、わたしたちが地球を救う、とそう言っているのらしい。

馬鹿じゃなかろか。

と思う。
人間などに救ってもらわなくても、地球は五十億年前から悠然とここに在るし、〈わたしたち〉が滅び去った後も、やはり地球は悠然とここに浮かんでいる。太陽が内部崩壊を起こし惑星達を灼き尽くす四十数億年後といわれる時まで、地球はここに在りつづける。地球の表皮にへばりついている寄生虫のごとき人間が何を恩着せがましいことをゆーとるか、と感じる。しかもいまや我々は地球にとって有害な寄生虫ですらある。

思うのだが、あの番組のスポンサーはその企業活動のなかで、微塵も地球を傷つけてはいないのだろうか。高らかにテーマ曲を歌う加山さんは、あの豪華な船で微塵も海を汚してこなかったのだろうか。そんな筈はないだろうと思う。。しかしそれは、べつにいい。企業は利益を上げなければなるまいし、加山さんにも悪意はない。俺も皆も大なり小なり地球を傷つけながら生きている。他の犠牲なしに生命は存在し得ない。
地球もそのことはよく解っている。だから、全ての生命に対して全身を提供してくれてきた。動物も植物も地球から必要なものだけを享受して生きてきた。人間だけが、いつからか、度を越して地球を貪りはじめた。「困った奴らだ」いま地球は思っている。そんななかで、地球を困らせてる張本人たる人間が、

〈愛は地球を救う〉

とか言っている。
聞いてて私はとても恥ずかしい。やっているほうは恥ずかしくないのだろうか。毛ガニの足のような神経をしておられるのだろうか。地球を救うまえに、ご自分を救ったほうがいいのではあるまいか。

#1 辻内智貴 「歌う廃人」 *私は本当に役に立たない*


辻内智貴「ブルースを唄ってくれ」

さて。
ブログなるものを始めてみようとしている私なのである。友人のA君が全てセッティングしてくれたもので、私自身はブログもフロクもわからないボンクラである。きっと見かねてのことなのだろうと思う。

「最近は作品も発表してないようだし、何か気軽に書いてみたらどうですか」

私より三つほど若いA君はそう言って、こういう場所をわざわざつくってくれたのである。頭が下がる。
しかし自分で言うのもなんだが、私は本当に役立たずな人間で、世間と殆ど没交渉の廃人候補である。何も生産せず、ただ、だらだらとカネがもつ間生きていようかなというだけである。私にあるのは、散歩と、もの思いと、ギターを弾いて歌をうたうこと、それぐらいである。そんな私が、このニギヤカなネット世界に置く言葉など持ち合わせているとも思えないのだが、しかしまた、この役立たずっぷりを半ば遺書でも綴るようにつれづれに書いておくのも面白いなと、そうも思った次第である。役立たずには役立たずにしか出会えない言葉がある。それは案外、他にはない価値を持っているのかもしれないと、そんな気もしたのである。

      *

夕刻、ぶらぶらと川べりを散歩しながら、

「しかし我々は毎日ここで一体何をしているのだろう?」

そんな余計なことを考えてみるのである。
考えるまでもなく、生活というものをしているのであろうが、しかし生活とはなんなのだろう。私も含め、みな毎日を普通に暮らしてはいるが、考えてみたら、なぜこうして暮らしているのかレッキとした理由は誰も知らない。星空を見上げて、流れ星だ!、とか言ってはいるが、宇宙の正体が何なのかは誰も知らない。この宇宙の外側のことなど、もっと知らない。それを見上げるこの場所にナゼいま自分が居るのかもわからない。なぜ産まれたのか、なぜ老いていくのか、なぜ死ぬのか、ほんとうのところ、誰も、まったく知らない。知らないまま、食べて、飲んで、笑って、泣いて、働いている。ステージで人生という劇をそれぞれにやりながら、そのじつ、劇場の場所も名称も、その外観すら知らないでいる。

ヘンだ。

と思うのである。
私がヒマすぎるのだろうか。それもある。しかしそんななかで、つまりは、私もやっぱり、人間の幸せというものを探しているのではある。だがそれにはやはり、なぜ「こうあるのか」が先に知られなければならない気が、どうしてもするのである。
嬉しい、楽しい、面白い、というのは巷に溢れている。私の身にも多少はある。しかし、宮沢賢治ではないが、ほんたうの、ほんたうの幸せ、というのは、やはり、「なぜこうあるのか」を考えるところから始まる気がするのである。

     *

そうした「なぜ生きているのだろう」的な問いを所有した時、ある意味ヤバいのは、我々はすでにここに産まれてしまっているということである。ゲームはとうに始まっているのである。我々は観客席にいるわけではなく、人生というグラウンドで絶え間なくプレーしつづけているプレーヤーなのである。プレーヤーがプレー以外に余念を持つことは、じつは危険なことでもあるのである。

野球選手は野球をやりながら、「野球とは一体何なのだろう」とはたぶん考えない。いや絶対考えない。考えたとしたら、もうその人は野球選手ではない。ゴロを捕り、一塁に投げようとして、(…しかしなぜ一塁なのか、野球とはなんなのか、あの人をアウトにすることに一体何の意味があるのか、あんなに一生懸命走ってるではないか)とか考えた瞬間、その人にとっての野球自体が崩壊する。そしてたぶんクビになる。

生きながら生きる意味を問うという行為も、似たようなものである。日常の営みの整合性が壊れていく。なんだか全てが虚ろとなり、いちいちがおろそかになっていく。一種の病気である。症状としては、怠惰、無関心、テキトー、昼まで寝てる、回転寿司が好き、などがある。一見、ただの寿司好きの怠け者と区別がつかない。実際ただの寿司好きの怠け者が混じっている場合もある。私がそうかもしれない。どっちにしろ役立たずである。
歌う廃人。人は私をそう呼ぶ。

初めまして、辻内智貴のオフィシャルHPブログを開設しました。

皆さん、初めまして。辻内智貴オフィシャルHPブログの管理人です。

私は辻内智貴さんのファンでありブログ管理人です。

辻内さんの小説に出てくる青空のような澄んだ心を持った人々の暖かい作品に感動して、ネットを通じて多くの皆様に辻内智貴さんを知って頂きたいと思い、かなり辻内さんに無理なお願いをして、オフィシャルHP&ブログを開設致しました。

きっと多くの皆さんの人生の指針や、暇つぶし(^^;)になるだろうと思います。

先日、逝去なされた津川雅彦さんが演じる辻内さんの小説映画「セイジ -陸の魚- 」のおじいさんの言葉が、「セイジ、数多くの本を読んだお前ならこの苦しみをどうすればいいのか知っているだろう。教えてくれ」と言うようなくだりがあったのですが、私にはその人の心に寄り添う事しかできないような気がします。

そして、あなたの心に寄り添ってこれからの人生を見守ってくれる辻内智貴の文章だと思います。
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著作権は放棄していませんので、辻内智貴の著作になります。後に書籍化も考慮していますので何卒ご了承下さいませ。

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