#1 辻内智貴 「歌う廃人」 *私は本当に役に立たない*


辻内智貴「ブルースを唄ってくれ」

さて。
ブログなるものを始めてみようとしている私なのである。友人のA君が全てセッティングしてくれたもので、私自身はブログもフロクもわからないボンクラである。きっと見かねてのことなのだろうと思う。

「最近は作品も発表してないようだし、何か気軽に書いてみたらどうですか」

私より三つほど若いA君はそう言って、こういう場所をわざわざつくってくれたのである。頭が下がる。
しかし自分で言うのもなんだが、私は本当に役立たずな人間で、世間と殆ど没交渉の廃人候補である。何も生産せず、ただ、だらだらとカネがもつ間生きていようかなというだけである。私にあるのは、散歩と、もの思いと、ギターを弾いて歌をうたうこと、それぐらいである。そんな私が、このニギヤカなネット世界に置く言葉など持ち合わせているとも思えないのだが、しかしまた、この役立たずっぷりを半ば遺書でも綴るようにつれづれに書いておくのも面白いなと、そうも思った次第である。役立たずには役立たずにしか出会えない言葉がある。それは案外、他にはない価値を持っているのかもしれないと、そんな気もしたのである。

      *

夕刻、ぶらぶらと川べりを散歩しながら、

「しかし我々は毎日ここで一体何をしているのだろう?」

そんな余計なことを考えてみるのである。
考えるまでもなく、生活というものをしているのであろうが、しかし生活とはなんなのだろう。私も含め、みな毎日を普通に暮らしてはいるが、考えてみたら、なぜこうして暮らしているのかレッキとした理由は誰も知らない。星空を見上げて、流れ星だ!、とか言ってはいるが、宇宙の正体が何なのかは誰も知らない。この宇宙の外側のことなど、もっと知らない。それを見上げるこの場所にナゼいま自分が居るのかもわからない。なぜ産まれたのか、なぜ老いていくのか、なぜ死ぬのか、ほんとうのところ、誰も、まったく知らない。知らないまま、食べて、飲んで、笑って、泣いて、働いている。ステージで人生という劇をそれぞれにやりながら、そのじつ、劇場の場所も名称も、その外観すら知らないでいる。

ヘンだ。

と思うのである。
私がヒマすぎるのだろうか。それもある。しかしそんななかで、つまりは、私もやっぱり、人間の幸せというものを探しているのではある。だがそれにはやはり、なぜ「こうあるのか」が先に知られなければならない気が、どうしてもするのである。
嬉しい、楽しい、面白い、というのは巷に溢れている。私の身にも多少はある。しかし、宮沢賢治ではないが、ほんたうの、ほんたうの幸せ、というのは、やはり、「なぜこうあるのか」を考えるところから始まる気がするのである。

     *

そうした「なぜ生きているのだろう」的な問いを所有した時、ある意味ヤバいのは、我々はすでにここに産まれてしまっているということである。ゲームはとうに始まっているのである。我々は観客席にいるわけではなく、人生というグラウンドで絶え間なくプレーしつづけているプレーヤーなのである。プレーヤーがプレー以外に余念を持つことは、じつは危険なことでもあるのである。

野球選手は野球をやりながら、「野球とは一体何なのだろう」とはたぶん考えない。いや絶対考えない。考えたとしたら、もうその人は野球選手ではない。ゴロを捕り、一塁に投げようとして、(…しかしなぜ一塁なのか、野球とはなんなのか、あの人をアウトにすることに一体何の意味があるのか、あんなに一生懸命走ってるではないか)とか考えた瞬間、その人にとっての野球自体が崩壊する。そしてたぶんクビになる。

生きながら生きる意味を問うという行為も、似たようなものである。日常の営みの整合性が壊れていく。なんだか全てが虚ろとなり、いちいちがおろそかになっていく。一種の病気である。症状としては、怠惰、無関心、テキトー、昼まで寝てる、回転寿司が好き、などがある。一見、ただの寿司好きの怠け者と区別がつかない。実際ただの寿司好きの怠け者が混じっている場合もある。私がそうかもしれない。どっちにしろ役立たずである。
歌う廃人。人は私をそう呼ぶ。