#18 意識

なぜ、この自分なのか、と思う時がある。

人と話しているとき、メシを食っているとき、スーパーのレジに並んでいるとき、日常のふとした隙間に、なぜ自分は、「この」自分なのだろう、と思われてくる時がある。

日本の、田舎町の、地方公務員の家の四人兄弟の末の子として生まれたという私の生い立ちは、いつ設定されたのかと、まじめに考えてみたりする。

そんなとき、なんとなくだが、意識と体を別々に感じたりすることがある。
体は辻内某のままだが、意識は「誰でもない」という感覚。
また「誰であってもいい」という感覚。
自分のものではない記憶が一瞬よぎる感覚。

脳内現象にすぎないのだろうが、へんにリアルだったりする。

何らかの精神疾患なのかと思わなくもないが、一応、客観性は保っている。
気分としてもマイナスのものではなく、なにか広々とした解放感を感じる。
個体ではなく、気体に近い感覚である。

全ての場所に同時に居るかのような感覚。
こうしていることのわけが一望に見渡せる場所に居るかのような感覚。

あの風のような感覚。

あれが死というものならいいな、と思ったりする。

      

#12 キレイゴトもほどほどに

世の中、キレイゴトだらけである。
寝る前にニュースでも見ようかとテレビをつけると、いきなり、

「夢は必ず叶う!」

とか言ってタレントがガッツポーズをしたりしている。
「なわけねーだろ」と、ついツッコんでしまう。

「人間は素晴らしい!」
「人生はワンダフル!」
あっちでこっちで、そんなことばかり言っている。
そんなプラスの言葉ばかりに埋め尽くされて育った子供は、やがて成人して世の中に出たとき、きっとこう思う。

「人間は素晴らしくなんかないじゃん!」「人生はワンダフルじゃないじゃん!」

いやいや人間は充分素晴らしいし、人生はそこそこワンダフルなのだが、彼がそう思えないのは、人間や人生に対する期待値が高すぎるのである。 キレイゴトに洗脳されて期待値がいきなり目盛り90あたりから始まっているから、少々のことでは満足できないし、逆に、少々のことで傷つき、絶望する。 そんな絶望が臨界点に達したとき、知性がある場合は鬱病になり、知性に乏しい場合は、通り魔殺人などをしでかす。

極論ではあるが、そんな構図が見える気がする。

キレイゴトは、ほどほどにしといたほうがいい。

#9 目に見えぬもの

哲学者で、京都大学の教授だった西田幾多郎さんは、幼い娘を病気で亡くしたとき、その悲しみのなかで「我が子の死」という随筆を書いている。
一部抜粋してみる。

「…今まで愛らしく話したり、歌ったり、遊んだりしていた者が、忽ち消えて壺中の白骨となるというのは、如何なる訳であろうか。もし人生はこれまでのものであるというならば、人生ほどつまらぬものはない、此処には深き意味がなくてはならぬ、人間(略)は、かくも無意義のものではない(後略)」

四十代だった私は、読んで強く共感した。
私などがあの西田幾多郎に「共感」などと言うのはおこがましいのだろうが、氏の語る言葉の芯のようなものが、すとん、と私にはいってきた気がした。

ちょうど、阪神淡路大震災、一連のオウム事件、と、人間の幸福よりも、そうでない部分のほうが目につく時期だったせいもあるのかも知れない。
 
     *

もし人生というものが、目に見え、手に触れ、耳に聞こえるもの、ただそれだけのものだとしたら、
「人生ほどつまらぬものはない」
私もそう感じる。

産まれて、生きて、死ねばそれきりの、ただそれだけのものだとしたら、
悲しみや不幸が、ただ悲しみや不幸として置き去りにされるだけのものだとしたら、
そんな解りきったことだけで人生というものが出来上がっているのだとしたら、

そんな人生なんぞ、たったいまやめてしまうがいい、とさえ思う

      *

私は、この足りてない頭で、性懲りもなく、宇宙というものを考える。
人間がこうあることのカラクリと、そのカラクリを宿して宇宙は一体何をしたいのかと考える。

わかるわけがない。

だが、それでいいのだとも思う。

私はたぶん、それをわかりたくて考えるのではなく、それはわからないのだということを確かめたくて考えている気がする。大事なのは、わからない、ということなのだと。

わからないから、そこに幸福や希望を問うことができる。
問いつづけるかぎり、問いとしての幸福や希望は失われない。
問いつづける私は、問いつづけることで、問いとしての幸福や希望に出会うことができる。

     *

だからどうした、とか言われそうである。
べつにどうもしやしない。
あした晴れるといいね。

#5 フォークソング

私は元フォーク小僧である。
〈モーリス持てば、スーパースターも夢じゃない!〉とか言われてモーリスギターを買ったクチである。十五歳の夏のことだったと思う。
その後どんどんフォークソングがメジャーとなり、ニューミュージックとか言われだした頃からあまり聴かなくなったが、先祖帰りとでも言うのか、六十を過ぎたこのごろ、思い出すままに部屋でよくフォークソングなどを歌っている。

元々は兄や兄の友達とかの影響で、ビートルズやストーンズに親しんだ少年だった。中学に上がってからはラジオの深夜放送などを聴くようになり、洋楽の、主にシングル盤をよく聴いた。CCR、とか、ザ・ショッキングブルー、とかの、あのあたりである。ニール・ヤングの孤独の旅路とか、ユーライアヒープの七月の朝とか、イカした歌が沢山あった。ニルソンの〈ウイズアウトユー〉などは今でも聴く。ちなみにこの曲はバッドフィンガーがオリジナルで、バッドフィンガーには〈明日の風〉といういい曲もあった。

そのあたりとカブるように、フォークソングというものがラジオを中心に徐々に世の中に広まっていったように思う。学生運動のお兄ちゃん達が新宿西口広場で岡林信康の〈友よ〉とかを歌ったりしているのを、ニュース映像か何かで見た記憶がある。
その頃までは、まだ俺は洋楽小僧だった。俺をフォークソングに引き摺り込んだのは、吉田拓郎という人で、〈今日までそして明日から〉という曲をオールナイトニッポンで耳にした時、(あ、こうゆうのやりたい!)と強烈に思い、以後、私は破滅への道を辿ることになるのである。

評論家みたいなことを書いているうちに、何の話がしたかったのか忘れてしまった。
ともかくも、六十二歳のいま、たとえば泉谷しげるの〈春夏秋冬〉、及川恒平の〈雨が空から降れば〉、友部正人の〈一本道〉、そうした歌の一つ一つが、しみじみ沁みる俺なのである。

#1 辻内智貴 「歌う廃人」 *私は本当に役に立たない*


辻内智貴「ブルースを唄ってくれ」

さて。
ブログなるものを始めてみようとしている私なのである。友人のA君が全てセッティングしてくれたもので、私自身はブログもフロクもわからないボンクラである。きっと見かねてのことなのだろうと思う。

「最近は作品も発表してないようだし、何か気軽に書いてみたらどうですか」

私より三つほど若いA君はそう言って、こういう場所をわざわざつくってくれたのである。頭が下がる。
しかし自分で言うのもなんだが、私は本当に役立たずな人間で、世間と殆ど没交渉の廃人候補である。何も生産せず、ただ、だらだらとカネがもつ間生きていようかなというだけである。私にあるのは、散歩と、もの思いと、ギターを弾いて歌をうたうこと、それぐらいである。そんな私が、このニギヤカなネット世界に置く言葉など持ち合わせているとも思えないのだが、しかしまた、この役立たずっぷりを半ば遺書でも綴るようにつれづれに書いておくのも面白いなと、そうも思った次第である。役立たずには役立たずにしか出会えない言葉がある。それは案外、他にはない価値を持っているのかもしれないと、そんな気もしたのである。

      *

夕刻、ぶらぶらと川べりを散歩しながら、

「しかし我々は毎日ここで一体何をしているのだろう?」

そんな余計なことを考えてみるのである。
考えるまでもなく、生活というものをしているのであろうが、しかし生活とはなんなのだろう。私も含め、みな毎日を普通に暮らしてはいるが、考えてみたら、なぜこうして暮らしているのかレッキとした理由は誰も知らない。星空を見上げて、流れ星だ!、とか言ってはいるが、宇宙の正体が何なのかは誰も知らない。この宇宙の外側のことなど、もっと知らない。それを見上げるこの場所にナゼいま自分が居るのかもわからない。なぜ産まれたのか、なぜ老いていくのか、なぜ死ぬのか、ほんとうのところ、誰も、まったく知らない。知らないまま、食べて、飲んで、笑って、泣いて、働いている。ステージで人生という劇をそれぞれにやりながら、そのじつ、劇場の場所も名称も、その外観すら知らないでいる。

ヘンだ。

と思うのである。
私がヒマすぎるのだろうか。それもある。しかしそんななかで、つまりは、私もやっぱり、人間の幸せというものを探しているのではある。だがそれにはやはり、なぜ「こうあるのか」が先に知られなければならない気が、どうしてもするのである。
嬉しい、楽しい、面白い、というのは巷に溢れている。私の身にも多少はある。しかし、宮沢賢治ではないが、ほんたうの、ほんたうの幸せ、というのは、やはり、「なぜこうあるのか」を考えるところから始まる気がするのである。

     *

そうした「なぜ生きているのだろう」的な問いを所有した時、ある意味ヤバいのは、我々はすでにここに産まれてしまっているということである。ゲームはとうに始まっているのである。我々は観客席にいるわけではなく、人生というグラウンドで絶え間なくプレーしつづけているプレーヤーなのである。プレーヤーがプレー以外に余念を持つことは、じつは危険なことでもあるのである。

野球選手は野球をやりながら、「野球とは一体何なのだろう」とはたぶん考えない。いや絶対考えない。考えたとしたら、もうその人は野球選手ではない。ゴロを捕り、一塁に投げようとして、(…しかしなぜ一塁なのか、野球とはなんなのか、あの人をアウトにすることに一体何の意味があるのか、あんなに一生懸命走ってるではないか)とか考えた瞬間、その人にとっての野球自体が崩壊する。そしてたぶんクビになる。

生きながら生きる意味を問うという行為も、似たようなものである。日常の営みの整合性が壊れていく。なんだか全てが虚ろとなり、いちいちがおろそかになっていく。一種の病気である。症状としては、怠惰、無関心、テキトー、昼まで寝てる、回転寿司が好き、などがある。一見、ただの寿司好きの怠け者と区別がつかない。実際ただの寿司好きの怠け者が混じっている場合もある。私がそうかもしれない。どっちにしろ役立たずである。
歌う廃人。人は私をそう呼ぶ。

初めまして、辻内智貴のオフィシャルHPブログを開設しました。

皆さん、初めまして。辻内智貴オフィシャルHPブログの管理人です。

私は辻内智貴さんのファンでありブログ管理人です。

辻内さんの小説に出てくる青空のような澄んだ心を持った人々の暖かい作品に感動して、ネットを通じて多くの皆様に辻内智貴さんを知って頂きたいと思い、かなり辻内さんに無理なお願いをして、オフィシャルHP&ブログを開設致しました。

きっと多くの皆さんの人生の指針や、暇つぶし(^^;)になるだろうと思います。

先日、逝去なされた津川雅彦さんが演じる辻内さんの小説映画「セイジ -陸の魚- 」のおじいさんの言葉が、「セイジ、数多くの本を読んだお前ならこの苦しみをどうすればいいのか知っているだろう。教えてくれ」と言うようなくだりがあったのですが、私にはその人の心に寄り添う事しかできないような気がします。

そして、あなたの心に寄り添ってこれからの人生を見守ってくれる辻内智貴の文章だと思います。
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著作権は放棄していませんので、辻内智貴の著作になります。後に書籍化も考慮していますので何卒ご了承下さいませ。

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