#20 柿

スーパーで柿を一個買った。
普段、果物はあまり食べない。せいぜいバナナくらいのものだ。
バナナは塩分摂りすぎ気味の私に友人が勧めてくれたもので、カリウムが豊富でいいとのことだったが、カリウムが何なのかよく知らないまま、安いので買って食べている。

バナナ以外には葡萄をたまに買うくらいで、柿を買おうなどと思ったことは一度もない。
これはたぶん少年期の記憶が影響していて、柿などは、よその家の庭のものを勝手にちぎって喰うものであって、カネを出して買うものではないと、そう自分のなかで決めつけているフシがある。 無花果(いちじく)、びわ、などもやはりそうで、それらは、買うものではなく、「勝手にちぎって喰うもの」として私のなかに今もある。 もっとも、この年齢でそんな真似も出来ないので、必然的に、無花果もびわも、日常、ほとんど口にすることはなくなった。

柿もまた、最後に食べたのがいつだったか思い出せないほど縁遠い食べ物になってしまっていたが、何故か今日、スーパーの入口近くに並べられた柿がふと目にとまり、一個を手にとって、なんとなく、そのまま買って帰った。

部屋に戻り、皮を剥いて、切り分けた柿の一つを口にいれ、噛んだ瞬間、まるで音がするように、小学生の頃の運動会の風景が、脳内にひろがった。

あ、運動会、と思わず声がでた。

秋晴れの空の下、母がフォークに刺して差しだした柿を、運動場に敷いた呉座(ござ)の上で頬張っている自分が、頭のなかで鮮やかに再生された。

白い体操着に赤い帽子を被った私は、短パンから突き出た膝を立てて座り、柿を食べ、巻き寿司を食べ、水筒の麦茶を飲んでいる。
運動場には幾つものテントが張られ、万国旗が風にはためく下で、それぞれの家族達が賑やかに昼食をとっている。
三十代の母は、私や兄たちの世話をしながら、ふっくらと張りのある顔で笑っている。
その隣に祖母が居て、無心に弁当を食べる私を、目を細めて見つめている。

私はこの祖母に愛されて育った。

四人兄弟の末っ子だった私は、母が仕事をしていたということもあり、幼少期の多くの時間を、この祖母とともに過ごした。
祖母の姿が見えないと泣きながら家中を探し回るほど、幼い私はこの祖母を慕っていた。

やがて少年となり、青年となり、私の祖母への思いは次第に薄れていったが、祖母は終生、私を愛して、七十二歳のとき、風呂場で死んだ。

私と過ごす時間が少しづつ少なくなり、会話も限られたものになり、私の気持ちがどんどん他へ向かっていくなかで、あの頃、祖母はどんなに淋しかっただろうと、一個の柿を食べながら、思った。

#19 モノとヒト

夏頃にこのブログを始めて、ふた月ほどになる。
ふと思ったことや、かねてから感じていたことをツレヅレに書き綴るのは一寸した充実感があったし、書いてみることで、それぞれの言葉の置場所を自分の内に見つけられる気もした。

週に一本か二本程度の投稿だが、あくまで書きたいことがあって書くという作業なので、吸った息を吐くような、無理のない行為であった。

この所珍しく用事が重なり、ふと、ブログしばらく書いてないな、と思ったとき、何か書くことはないかと無意識に〈ネタ〉を探している自分に気がついた。 (ああ、こういう心理は良くないな)そう思った。
ブログという道具に煽られているような気がした。

以前観た映画で「ナイトクローラー」という不気味に面白い映画があった。
事件、事故の現場などを生々しくカメラに収めてテレビ局に売りつける、いわゆる報道パパラッチと呼ばれる男の話だったが、次第にエスカレートし、自分で事故現場に手を加えたり、挙げ句には殺人まで演出してしまうという怖い話だった。

いま世間でユーチューバーといわれる類いの人達にも、そんな心理が常に働いているのではないだろうか。
自分の子供に虐待まがいのことをして、その動画をアップして大金を得たという両親の話を友人に聞いたことがあるが、もはや、そんな時代というほかない。

人間が急速に変容しつづけている。

人間がモノを創る季節が終わり、モノが人間を造る季節に入ったのだという気がする。

ここに至って私は、何を書きたかったのか、また忘れてしまった。

下書きしろよ、辻内。

#18 意識

なぜ、この自分なのか、と思う時がある。

人と話しているとき、メシを食っているとき、スーパーのレジに並んでいるとき、日常のふとした隙間に、なぜ自分は、「この」自分なのだろう、と思われてくる時がある。

日本の、田舎町の、地方公務員の家の四人兄弟の末の子として生まれたという私の生い立ちは、いつ設定されたのかと、まじめに考えてみたりする。

そんなとき、なんとなくだが、意識と体を別々に感じたりすることがある。
体は辻内某のままだが、意識は「誰でもない」という感覚。
また「誰であってもいい」という感覚。
自分のものではない記憶が一瞬よぎる感覚。

脳内現象にすぎないのだろうが、へんにリアルだったりする。

何らかの精神疾患なのかと思わなくもないが、一応、客観性は保っている。
気分としてもマイナスのものではなく、なにか広々とした解放感を感じる。
個体ではなく、気体に近い感覚である。

全ての場所に同時に居るかのような感覚。
こうしていることのわけが一望に見渡せる場所に居るかのような感覚。

あの風のような感覚。

あれが死というものならいいな、と思ったりする。

      

#5 フォークソング

私は元フォーク小僧である。
〈モーリス持てば、スーパースターも夢じゃない!〉とか言われてモーリスギターを買ったクチである。十五歳の夏のことだったと思う。
その後どんどんフォークソングがメジャーとなり、ニューミュージックとか言われだした頃からあまり聴かなくなったが、先祖帰りとでも言うのか、六十を過ぎたこのごろ、思い出すままに部屋でよくフォークソングなどを歌っている。

元々は兄や兄の友達とかの影響で、ビートルズやストーンズに親しんだ少年だった。中学に上がってからはラジオの深夜放送などを聴くようになり、洋楽の、主にシングル盤をよく聴いた。CCR、とか、ザ・ショッキングブルー、とかの、あのあたりである。ニール・ヤングの孤独の旅路とか、ユーライアヒープの七月の朝とか、イカした歌が沢山あった。ニルソンの〈ウイズアウトユー〉などは今でも聴く。ちなみにこの曲はバッドフィンガーがオリジナルで、バッドフィンガーには〈明日の風〉といういい曲もあった。

そのあたりとカブるように、フォークソングというものがラジオを中心に徐々に世の中に広まっていったように思う。学生運動のお兄ちゃん達が新宿西口広場で岡林信康の〈友よ〉とかを歌ったりしているのを、ニュース映像か何かで見た記憶がある。
その頃までは、まだ俺は洋楽小僧だった。俺をフォークソングに引き摺り込んだのは、吉田拓郎という人で、〈今日までそして明日から〉という曲をオールナイトニッポンで耳にした時、(あ、こうゆうのやりたい!)と強烈に思い、以後、私は破滅への道を辿ることになるのである。

評論家みたいなことを書いているうちに、何の話がしたかったのか忘れてしまった。
ともかくも、六十二歳のいま、たとえば泉谷しげるの〈春夏秋冬〉、及川恒平の〈雨が空から降れば〉、友部正人の〈一本道〉、そうした歌の一つ一つが、しみじみ沁みる俺なのである。

#4 猫

猫と暮らしてもう九年になる。盛り場の路地に蹲(うずくま)っていたのを連れて帰ったものである。左の手のひらに軽々と乗せて帰ったのを憶えている。つまりそのくらいの幼さだった。

それが九歳になった。(九年も一緒にいるのか)と時のはやさに驚いてしまう。猫の九歳といえばもうオバサンである。にもかかわらず、避妊手術をしたせいか、いつまでも幼さが抜けない。

腹がへると、目の前にきて、じ、っと俺を見詰める。空腹アピールをしているのである。そんなアピールなどしなくても、ドライフーズはいつも皿に盛ってあるのだから勝手に食べればよさそうなものだが、こちらが何か言うまで、じ、っと見詰めつづける。
「なんだよ」と、例えばそう言ってやると、それで何か得心したように、ごはん皿に歩いていってカリカリと食べはじめる。つまり言葉はなんであれ、こちらの発語が或る種の〈許可〉を与えるかたちになるらしい。食べ終えると、またそばに来て伸びをしてみせたりする。満足アピールである。
それからしばらくは、一人で遊んでいる。
自分の体を舐めたり、ゴロゴロしたり、床に転がった消しゴムに大袈裟に襲いかかったり、いろいろやっている。
しかしそのうちまた正面にやって来て、またじ、っと俺を見詰めはじめる。「今度は何だよ」と言うと、そそくさとトイレに行く。オシッコしたいアピールだったらしい。そしてまたしばらく遊んでいる。 やがてまた正面にくる。そうしてまた見詰める。その目がシバシバしている。眠いのである。「眠いなら寝ろよ」と言うと、うん、とばかりにゴソゴソと毛布に潜り込んでいく。

全ての行動にアピールと許可が伴う。だから長時間外出したときなど、そのあいだにトイレにいった痕跡も、ごはんを食べた様子もない。帰ってくると、腹へった、トイレいきたい、眠い、どれがどれやらわからないアピールが一斉に始まる。いいトシをして依存性が強すぎる。トイレにいってもついてくる。風呂に入ってもついてくる。来客があると脅えて泣く。だからほとんど人を部屋に上げることはなくなった。俺の暮らしは地味になるばかりだ。面倒臭いやつだとつくづく思うが、こいつがもし居なくなったら、きっと俺は泣くと思う。

#3 台風

よくまあ次から次に台風が。
呆れる思いでテレビのニュースを見ていた。今回も各地で大きな被害がでている。
そんなときに不謹慎かも知れないが、ニュースを見ながら、ふと子供の頃の台風の夜を思い出していた。(あの頃の台風は、ノンキなものだったな)。そんなことを考えていた。
べつに昔の台風が今よりノンキなものだったわけでは、当然ない。死者何人、行方不明者何人、という台風はいくらもあった。台風がノンキだったわけではなく、自分たち子供がノンキだっただけである。ノンキという以上に、台風接近!とか聞くと、どこかワクワクするものさえ感じていた。
「午後から風雨が強まる」といった予報がでると、学校は午前中までで、家の近い生徒同士かたまって集団下校させられた。教員住宅が近所にあったせいか、先生と一緒に帰ったこともあった。
家に帰ると、親父は屋根の上でテレビのアンテナを針金で強化したりしている。母は縁側の鉢植えやら何やらを座敷に移している。祖母は祖母で、あれは非常食ということだったのか、汗をかくように大量のオニギリを握ったりしていた。近所のオジサンが屋根の上の親父を手伝いに来たり、公民館のスピーカーが台風への備えをハウりながら町内に促したり、そうした町じゅうの慌ただしさが、へんに子供心をワクワクさせるのだった。 追い立てられるように風呂に入らされ、早々とパジャマを着させられ、雨戸を叩く風の音がしだいに激しくなっていくなかで晩ごはんをすますと、お約束のように停電となる。
テレビも消えて、数本のロウソクに火を灯しただけのほの暗いお茶の間で、そんなとき母はよく子供達に歌をうたわせた。私は四人兄弟の末っ子だが、だからなのか、いつも最初に歌わされたような気がする。母によれば、坂本九の〈素敵なタイミング〉とかを私は歌っていたらしい。すぐ上の兄貴も歌が好きな男で、進んで何曲も歌っていた。姉もまた、のちに高校で合唱部に入るような人だから、そんなとき唱歌か何かをたぶん歌ったのだろう。いま思えば、けっこう歌好きな一家だったのだな。オーストリアのトラップファミリーほどではないにしろ。
ケータイもスマホもなく、一台のテレビを家族全員で見ていた頃の、そんな記憶がある。

初めまして、辻内智貴のオフィシャルHPブログを開設しました。

皆さん、初めまして。辻内智貴オフィシャルHPブログの管理人です。

私は辻内智貴さんのファンでありブログ管理人です。

辻内さんの小説に出てくる青空のような澄んだ心を持った人々の暖かい作品に感動して、ネットを通じて多くの皆様に辻内智貴さんを知って頂きたいと思い、かなり辻内さんに無理なお願いをして、オフィシャルHP&ブログを開設致しました。

きっと多くの皆さんの人生の指針や、暇つぶし(^^;)になるだろうと思います。

先日、逝去なされた津川雅彦さんが演じる辻内さんの小説映画「セイジ -陸の魚- 」のおじいさんの言葉が、「セイジ、数多くの本を読んだお前ならこの苦しみをどうすればいいのか知っているだろう。教えてくれ」と言うようなくだりがあったのですが、私にはその人の心に寄り添う事しかできないような気がします。

そして、あなたの心に寄り添ってこれからの人生を見守ってくれる辻内智貴の文章だと思います。
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著作権は放棄していませんので、辻内智貴の著作になります。後に書籍化も考慮していますので何卒ご了承下さいませ。

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