友達が数人居るというのは有り難いことだ、と晴れた窓辺で陽を浴びながら思った。
知り合い、は沢山いても、「友達」というのはそうは居ない。
すくなくとも私の場合。
思うに人は普通何人くらい「友達」が居るのだろう。
喋っていても、喋っていなくても、苦にならず、お互いがよく解っていて、会うたびに、何か懐かしく、ラクになれる、そんな「友達が。
K君は、高校の時からの、そんな友達の一人である。
〈男は五十歳までに自分の肖像を飾る額縁をつくる〉
さっきまで読んでいた本の中でそんな言葉を見たとき、ふとK君のことを思った。
K君は、学校を出て、自営の仕事を持ち、やがて結婚をし、子供を得て、良き家庭人として、地味といえば地味にも思えるその仕事を長いあいだ続けていたが、五十半ばで、その仕事をやめ、老人ホームを起ち上げ、その経営も軌道に乗り、いま二つ目の施設が出来ようとしている。
私には、彼の人生のそのジャンプが、やや驚きだった。
いつからそんなことを考えていたのか、
と尋ねると、
ずっと考えていた、という。
私には階段を数段とばして一気にジャンプしたかのような彼の転身だったが、おそらくK君は、正業をこなしながら、コツコツと積み木のように、必要な知識や人脈を一つ一つ時間をかけて積み上げてきたのだろう。
同世代の多くが、だんだんくたびれていくなかで、いまK君は、とても活き活きして見える。
まさに、自分の額縁を自分で造り上げてきたのだなと、そんな事を思った。
何が言いたいのかと言うと、べつに何が言いたい訳でもないのだが、先ほどの言葉を目にして、我が身を振り返ってみたとき、自分の額縁を造る事など考えもせずに生きてきた人生であったなあと、そのことがよく解るのである。
何の人生設計もなく、ただなるように生きてきたということだ。
おかげで近頃は、もうこの世界に自分の居場所は無いような気にさえなる。
額縁を造り忘れたのである。
ただまあ、勝手なことを言わせて貰うなら、若い頃から何かにつけいつも見上げてきたこの青空が、俺の還る、俺の人生の額縁かなあと、今日の空に、そんなことを思ってみるのである。