#25 太宰さん

近頃は、わりに早く起床するようになった。
心を入れ替えた訳ではなく、あまり眠れないのである。だいたい三時間か四時間で目が醒めてしまう。
夜更かしは相変わらずなので、午前四時とか五時とかにベッドに入り、八時とか九時とかに起きてしまう。酷い時は一時間ほどで起きてしまい、やることがないので、コーヒーを煎れ、山の稜線から昇ってくる朝日を眺めたりしている。
思うように眠れないのは不快だが、このところずっと天気が安定しているので、午前中の日差しを窓辺で浴びるのは、それなりに心地好い。 夏のあいだ、あれほど凶暴に思えた太陽が、人が変わったように優しく、温かい。
「晴れた日に永遠が見える」という映画が昔あったが、たしかに、おだやかに陽を浴びていると、いろんなことが心に訪れてくる気がする。 好きだったひとのことや、若くして死んだ親友のことなどが思われてくる。
今日までのいろんなことが順不同に立ち現れて、俺もそれなりに生きてきたんだなあ、と思ったりする。
知り合いの貸してくれた名言集の本などを取り上げ、パラリと捲ると、ボードレールやスタンダールに混じって、太宰治の言葉があった。小説「晩年」のなかの一節である。

〈死のうと思っていた。ことしの正月、よそから着物を一反もらった。お年玉としてである。着物の布地は麻であった。鼠色のこまかい縞目が織り込められていた。これは夏に着る着物であろう。夏まで生きていようと思った。〉

太宰治 「晩年」

ふと目にとまったそんな言葉が、なぜだか胸に沁みた。

#13 森田童子さん

森田童子さんが亡くなっていたことを、私はしばらくのあいだ知らなかった。
〈森田童子を支持する会〉という所から電話があり、「追悼式に何かコメントを頂けないでしょうか」と言われて初めて知った。

この頃、彼女の歌をよく聴いている。じつは今も聴いている。晴れた午後に、彼女の歌はよく似合う。
そのまどろむような歌声を聴いていると、過敏な神経にあえぎながらいつも助けをもとめていた少女のような姿が(勝手に)想像され、何かとても、いたわってあげたいような、そんな気持ちになる。

セレモニーとしてではなく、私個人の追悼として、そのとき書いた言葉をあらためてここに記したいと思った。

      *

森田童子を偲んで。

あれは四月の何日の事だったのだろう。
暖かな春の午後、ふと思いたって部屋の片付けを始めた。
要らないものを捨て、残すものを棚に押し込み、そんな事をしているとき、棚の奥に昔のフォークソングを集めた一枚のcdを見つけた。 ふと、久しぶりに森田童子が聴きたくなった。
片付けの手を休め、そこに収録されている「僕達の失敗」を聴いているうち、私は、なぜか泣いてしまった。
〈久しぶりに森田童子を聴いたら泣いてしまったよ。トシのせいかね〉そんなメールを宮崎に住む友人に送り、苦笑するように煙草に火を点けた。春の光が窓に射し込む、暖かな午後だった。

世の中の出来事に殆ど無関心に暮らしている私は、森田童子が死んだ事をずっと知らなかった。つい数日前にその事を知った。四月の某日に亡くなったと聞いたとき、彼女の歌をひとり聴いたその四月の午後の事を思い出した。そして、あれは四月の何日だったのだろうと思い、あのとき森田童子は逝ったのだろうか、などと勝手な事を考えてみたりした。

森田さん、すてきな言葉と歌声をありがとう。
お疲れ様でした。よい旅を。

辻内智貴

     *

ちなみに彼女の命日の四月二十四日は、私の誕生日でもある。