#28 言い訳

東京時代の知人で、敬愛するWさんから、「ブログ、読んでるよ」という連絡を貰った。
ありゃ、見つかってしまったか、というのが正直な気持ちである。
私は小説を幾つか書いたが、書きながら、いつもどこかで意識していたのが、このWさんだった。私にとって、言葉、というものを知っている尊敬できる人であり、ズボラでテキトーな私が、小説に関してそれなりに真摯に向き合えたのは、このWさんのお陰だったと思っている。 そのWさんが読んでるのか、と思うと、ここで少しの言い訳をしたくなった。

このブログで私がやっているのは、手元のケータイで書いた文章を、友人A君の作成してくれたブログアドレスに送るだけなのだが、たぶんそれが、途中で経由する機器の書式に変換されてしまうのだろう、改行が変わっていたり、一行空いていたり、改行したツモリがされてなかったり、と、いろいろ経由機器と気が合わなかったりする場合がある。 気になる時はA君に頼んで修正して貰っているのだが、あまり読み返さないので、気づかずそのままのものも、たぶんあると思う。

Wさん、もし文面にギクシャクした所があったとすれば、それは以上のような、機器の正直さゆえのことであります。
文章書きのハシクレとして、ささやかなプライドとともに、ここに言い訳をさせて頂く次第であります。

ps.
Wさん、お互い健康に留意して(おまえが言うな?)元気なうちに、またお会いしましょう!

#19 モノとヒト

夏頃にこのブログを始めて、ふた月ほどになる。
ふと思ったことや、かねてから感じていたことをツレヅレに書き綴るのは一寸した充実感があったし、書いてみることで、それぞれの言葉の置場所を自分の内に見つけられる気もした。

週に一本か二本程度の投稿だが、あくまで書きたいことがあって書くという作業なので、吸った息を吐くような、無理のない行為であった。

この所珍しく用事が重なり、ふと、ブログしばらく書いてないな、と思ったとき、何か書くことはないかと無意識に〈ネタ〉を探している自分に気がついた。 (ああ、こういう心理は良くないな)そう思った。
ブログという道具に煽られているような気がした。

以前観た映画で「ナイトクローラー」という不気味に面白い映画があった。
事件、事故の現場などを生々しくカメラに収めてテレビ局に売りつける、いわゆる報道パパラッチと呼ばれる男の話だったが、次第にエスカレートし、自分で事故現場に手を加えたり、挙げ句には殺人まで演出してしまうという怖い話だった。

いま世間でユーチューバーといわれる類いの人達にも、そんな心理が常に働いているのではないだろうか。
自分の子供に虐待まがいのことをして、その動画をアップして大金を得たという両親の話を友人に聞いたことがあるが、もはや、そんな時代というほかない。

人間が急速に変容しつづけている。

人間がモノを創る季節が終わり、モノが人間を造る季節に入ったのだという気がする。

ここに至って私は、何を書きたかったのか、また忘れてしまった。

下書きしろよ、辻内。

#12 キレイゴトもほどほどに

世の中、キレイゴトだらけである。
寝る前にニュースでも見ようかとテレビをつけると、いきなり、

「夢は必ず叶う!」

とか言ってタレントがガッツポーズをしたりしている。
「なわけねーだろ」と、ついツッコんでしまう。

「人間は素晴らしい!」
「人生はワンダフル!」
あっちでこっちで、そんなことばかり言っている。
そんなプラスの言葉ばかりに埋め尽くされて育った子供は、やがて成人して世の中に出たとき、きっとこう思う。

「人間は素晴らしくなんかないじゃん!」「人生はワンダフルじゃないじゃん!」

いやいや人間は充分素晴らしいし、人生はそこそこワンダフルなのだが、彼がそう思えないのは、人間や人生に対する期待値が高すぎるのである。 キレイゴトに洗脳されて期待値がいきなり目盛り90あたりから始まっているから、少々のことでは満足できないし、逆に、少々のことで傷つき、絶望する。 そんな絶望が臨界点に達したとき、知性がある場合は鬱病になり、知性に乏しい場合は、通り魔殺人などをしでかす。

極論ではあるが、そんな構図が見える気がする。

キレイゴトは、ほどほどにしといたほうがいい。